岡本太郎

 生誕100年記念で盛り上がる岡本太郎展を見に竹芝の東京国立近代美術館へ行ってきました。
 会場の前は皇居で、大都会だけどいいとこです。

 僕は大阪出身で3歳の時に衝撃的な大阪万博を経験しているから、アート・ディレクターだった岡本太郎にはなじみがあって子供の頃からそこそこ好きだったけど、実際に作品を見ることは少なかった。特に油絵の代表作は生まれて始めてみるものが殆ど。
 僕の中で知っている岡本太郎像はやはりクリエイター家族に生まれて戦前にフランスへ渡り、ピカソやジョルジュ・バタイユと親交のあった前衛芸術家。テレビに出てくる彼は変わったじいさんという感じだったけど、彼は実は凄い人なんですよね。
 ジョルジュ・バタイユと親交があった時点で僕の中では相当リスペクトできる人なんだけど、きっと岡本太郎よりバタイユのほうがもっと変態だったはず。バタイユってのは作家・思想家で、性倒錯みたいなえげつない小説をたくさん書き残したフランス文学の巨匠だ。ご本人が本でも書いていたけどバタイユは一緒独特の近寄りがたいオーラを発している人だったらしい。僕は高校生の時に『眼球譚』を読んでそのぶっとびぶりにかなり衝撃を受けた。フランス文学なんてそんな詳しくなかった時期だったけど、すごいってのはよくわかった。いろんなことで思い悩んでいた青春時代をバタイユを読んですごしていたなんて暗い学生だったけど、岡本太郎がそんな人と付き合いがあったなんて知ったのはずいぶんたってからだった。でも当時のパリは活気があったんだろうなあ。
 でもむしろ岡本太郎はバタイユの影響なんて感じなくてむしろピカソの要素のほうがだんぜん強い。やってることはアヴァンギャルドなんだけど、見た目にすごくユーモラスでキャッチーな絵を描く。陰惨な感じがしない天性の明るさみたいなものが前衛の中に見え隠れする、そんな作風で、オブジェなんか作らせてもみんな愛らしく、ほほえましくもある。漫画的な要素もあるのは父親の岡本一平の影響もあるのかも。

 ピカソは実は最近までぴんときてなかったけど、何年か前に彼のドキュメンタリー映画を観て絵の描き方を見たときからちょっと見方が変わった。すごく感覚的なんだけど、緻密な計算も入っている。誰もたどり着けない場所にいる人なんだと直感でわかった。それ以来ピカソは少しずつ追いかけてる。岡本太郎はパリで本人とも会っているから、もっと衝撃的だったんだろうな。

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 今回観に行って思ったことは、1940年代の初期の作品はピカソのキュビズムの要素ももちろんあるんだけれども、世間で言われているよりもっとダリのようなシュルレアリスムの影響が強いと思った。表現の手法は抽象的だけど、描いているものは具体性があって、見ている人も部分部分で何が書かれているか分かるような作品が多い。風刺的なテーマが多いけど、より見るもののイメージを作者の意識へ誘導させようというような衝動が見て取れる。面白いけど、当時から「絵は最悪」と酷評されてきた評論家達の言いたかったことも分からなくもない。ただ岡本太郎はそんな視点から見てもつまらないだけだと思う。彼はそれまでの日本人にはなかった、躍動感を前向きに表現できる数少ない芸術家だった。そこは高く評価していいだろう。ただし先を行かれたヨーロッパの先進的な芸術思想にちょっとかぶれはしたけれども。

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 40年代の作品の中ではこれがよかった。「作家」という作品だけど、たぶん母親の岡本かの子のことか。男のようにも見えるけど。ペンからニョロニョロと流れ出るオーラみたいなものがいい。悶々としたかんじが出ている。でも描きたいものははっきりとわかるから誰が見てもなんとなく理解できると思う。構図もいいし、モチーフもいいと思う。
 ただ僕はもっと具体的に何を描こうとしていたかなんてことには興味がないし、そこを追求する絵じゃないでしょう。描かれているのは作家。あとの背景にあるものは絵からぼんやりとイメージするのがこの絵の楽しみ方だと思う。内面的なものかな。そこのイメージがすごくよくできてると思っただけ。これはバシっときた。

 あ、ちなみに戦前の作品は全部戦火で焼けて残ってないらしいです。いくつかは戦後に自分で描き直しているものもありますが。
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 50年代に入ってもその手法は続いていて、この絵なんかも前衛ではあるけど、見るものを拒否させるような要素はない。「駄々っ子」という題名もなんか庶民的で誰でも理解できる。左の黄色いのはちょっとばい菌ぽい。

 岡本太郎は生涯の中で絵を売ったことは殆どなかったらしい。絵を個人のものにするというのがいやだった。でもそれで食えたっていうのが凄いけどね。家も青山にあったし。

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 シュール的な手法の反省をふまえたかどうかは分からないけど、1960年代にはいってからの彼の作品はより抽象性を増し、一般的には取っつきにくい作風にかわっていく。
 より抽象的になって、殆ど何を描いているかも分からないくらいになってくるけど、むしろグッとくる作品は僕にとってはこの時代のものが多かった。のびのびとしているし、受け手も自由にエネルギーを感じ取れて、見たまんまの印象で絵を評価できるという意味で成熟した抽象表現ができていると感じた。左の作品は「装える戦士」という作品だけど、ちょっと仏教とかに興味を持っていた時期で梵字のようでもある。

 彼は縄文式土器や土偶に興味を持っていたり、民俗学にもハマっていたことなど、共感できるところがある。だって彼のオブジェは土偶の影響大だしね。ナマハゲとかあのへんの話はすごく面白い。
 民俗学の面白いところは現代人の深層心理に祖先が培ってきたイデオロギーみたいなものが混沌と息づいていて、けっして無関係でないところ。もっと根源的な真理が見いだせるんじゃないか、そういう答えが垣間見られる気がする。言葉にすると難しいな。つまりナマハゲのことなんか僕の中には何も残っていないけど、とっくに失われたはずの過去の民族の特性が脈々と僕へ流れ込んできていることを知ることが出来ると。

最後は会場前に設置されたガシャポンで海洋堂の作った食玩みたいな岡本太郎フィギュアをゲットして帰ってきました。

あ、来年はポロックの作品が東京にきますよ。これは観に行かねば。

今回の震災について。

今回の震災で被害に遭われた皆さんにまずお見舞い申し上げます。これからも大変だとは思いますが、お互い頑張っていきましょう! 僕も復興に協力していきたいです。

そして個人的にはショックなことがもう一つありました。
3月10日の朝、日本のレゲエ・シーンを作り上げてきたプロデューサーの加藤学さんが病気のため亡くなられました。加藤さんは僕が信頼を寄せていた方の一人で、単に仕事の関係だけではなく、人間的にも素晴らしい人で、いろんな思い出がありました。あの加藤さんがこの世にもういないなんて、ほんと信じられないくらいショックです。今の僕は加藤さんのおかげといっても過言ではありません。ご冥福をお祈りします。

地震に遭う

そして11日、僕は加藤さんのご自宅があった仙台で行われるお通夜に出席するために午後家を出て仙台に向かいました。時刻表で調べると東京駅から新幹線に乗るより大宮駅から乗った方が若干早いことがわかったので埼京線に乗って大宮駅へ向かいました。

やがて電車は武蔵浦和駅に停車し、快速待ちとなりました。このあたりの電車の事情にわかっていない僕はそのまま乗っていた電車の座席に座っていましたが、向かいのホームに快速が来ることが分かって、あれに乗り換えれば早く大宮駅に着くんじゃないかと言うことになり、向かいに来た電車に乗り換えようと席を立ったその時です。
 グラグラと電車が揺れ始めました。
 最初は向かいの電車が入ってきたことで線路が揺れているのかと思ったくらいでしたが、いつまでも揺れているのであれ?と思ったのです。そのうち揺れがどんどん大きくなってきて、ホームに出ました。ホームも揺れていました。そのうち何かがカタカタと音を立て始めて、金属で出来たホームの屋根が大きな音をたてて揺れ始めました。もうその頃にはいろんなものが音を出していて、立っているのもやっと。思わずベンチの端を手でつかみました。
 すぐとなりのマンションは巨大で動いているようには見えなかったけど、看板とかグラグラ揺れているし、子供は号泣しているし、騒然とした雰囲気でした。
 その頃はまだ電車で仙台に向かうつもり満々だったので、当分ホームで電車が動くのを待っていました。しばらくたって駅員のアナウンスが入り、運転を見合わせていますとのこと。するとまた同じくらいの激しい揺れがホームを襲い、しゃがみ込む人もいました。
 揺れがおさまって、数分間はホームにいましたが、改札を解放したのでそのまま外に出てもらって構わないというアナウンスが聞こえてきたので、これは当分電車が走らないんだなと思い、改札を出ました。
 そこには大きなテレビがあり、緊急ニュースを大勢の人が食い入るように見ていました。
 すぐに津波の空撮映像が入ってきて、みんなで津波を見ました。テレビの音は聞こえない状態だったので、気づくのが遅かったのですが、ようやく地震が僕が今から行こうとしている仙台で起こったことに気づきました。
 まだ仙台行きをあきらめきれない僕は駅から離れないまま自分の無事を知らせようと自宅に電話しましたが、もはやまったくつながりません。メールが送れることが分かったのでメールを何人かに送りましたが返事がないことをみると、届いてないのか、もしくは送れない状況なのか…。だんだん心配になってきました。
 一番メールの返事が早かったのはたしかうちのスタジオの関係者でもあるH君。たまたまスタジオの近くにいたらしく、「今からスタジオの中に入って状況を確かめます」とのこと。本当にありがたい。
 一番連絡に役立ったのはtwitterです。知り合いも身内もみんな見ているし、殆どいつでもつながったので携帯から何度となく書き込みました。こういう災害時には携帯電話はEメールも含めてまったく役に立たなくなると言うことを身を以て知らされました。
 インターネットはそもそも核戦争が起きても通信網を破壊されないように巣(=ウェブ)のように通信回線を張り巡らしたアメリカ軍の産物で、それを商業的に解放したのが今のインターネットなのです。災害には強いはずです。

帰宅

 30分ほど駅にいて、地震の規模もある程度把握でき、これはもう仙台まで行くのは無理かなということがわかって帰ることを考え始めました。とはいっても家まで直線距離でも20kmは離れているし、電車が使えないということならタクシーしかないだろうと考えました。
 タクシー乗り場は既にもう100人くらいの人が並んでいましたが、とりあえず僕も並んで10分ほど待ちました。しかしタクシーが来る気配はまったくありません。すごく寒いし、これは待っててもしょうがないんじゃないかと思うようになってきました。そこでとりあえず一駅くらいは歩いてみようかなと思って南浦和へ向かいました(あとからわかったことですが、僕が向かったのは南浦和ではなく北戸田駅だったのです)。
 そこのタクシー乗り場はまだ20人くらいしか並んでいなかったので、僕はそこに並びました。その時にそこそこ大きな余震がまたそこにやってきて、それをきっかけに前のご婦人と話したのですが、武蔵浦和から歩いてきたと話すと、「え、武蔵浦和から歩けるんですか?」と驚いた様子。その僕の話に反応した人3人がタクシーの列から離れて僕が来た武蔵浦和に向けて歩き始めました。
 横にいたホームレスの爺さんによるとここ1時間にタクシーは一台も来ていないとのこと。外も薄暗くなってきてこれは無理かなと思っているときに、西川口行きのバスがやってきました。しかもそのバスがまだなぜかすいているのです。とりあえず西川口まで行ってみようと思って、そのバスに乗りました。
 バスはちょっと遠回りするルートのものでしたが、乗っている内にだんだん満員になってきて、西川口に着いたころには超満員でした。でもなんとか到着。すると駅の手前でバス会社の職員らしき人が道路の真ん中で手を振ってバスを止めています。なんでも駅前のターミナルが崩れていてバスが入れないとのこと。
 結局普段はある東京行きのバスが動いていなくて西川口から歩くことになりました。
 となりの川口は実は住んでいたことがあるので土地勘がありました。すぐにたどり着き、東京と埼玉の間にある荒川を歩いて渡るための荒川大橋までもスムースに地図なしで来れました。
 夜の8時近いというのに、渋滞した車のライトで橋は明るく、大勢のの人が歩

ブログのエンジンをバージョンアップしました。

素人の僕にとってはかなり敷居が高かったブログ・エンジンのバージョンアップを遂に実行しました。半日くらいレイアウトが崩れた状態のまま放置していたの、気づきました? んーとCGIってなんでしたっけ?

ところで先日の嫌みなくらい長い文字だけのブログが思いのほか好評だったことに気をよくしていますが、実はもっと壮大な計画があって、身勝手な社会心理学的ネタをいずれ時間ができたらブログで垂れ流したいと思ってます。その前にもうちょっと手軽なネタも提供しようかなと。

あと勉強もかねて、ぼちぼちとブログのデザインもカスタマイズしていこうと思っています。
この無意味な書き込みも実は新しくなったブログがうまく動作しているかの確認も兼ねていたりするのですが。