立体音響

 人間の耳は左右に1つずつ付いているだけですが、これは音がどの方向から聞こえているものなのかを判断するためですよね。でもその二つだけで上下感や前後感をどうやって判断しているのか、これについては完全に解明されていないようです。
 通常、オーディオの再生装置には2つペアになったスピーカーやイヤホンが付いていて、その二つからはまったく別な音が送られています。もし両方のスピーカーからまったく同じ音が出ていた場合、人間の耳にはスピーカーとスピーカーの間の真ん中から音が出ているように感じますが、左右が違っていればそうは聞こえません。微妙に左右がずれることでいわゆる「立体感」が生まれ、広がりのある音として楽しめるようになっているわけです。
 でもスピーカーやイヤホンで音を聞いていても「前後感」や「前後感」なんて普通感じませんよね?これが今日の本題。
 日常の生活では背後から自分の名前を呼ばれれば後ろを振り返ります。ちゃんと後ろから音がしてきたことを知覚できたからです。天井のエアコンがうるさい音を出していればそれもちゃんとわかります。単に「聞こえている」のではなく、聞こえた音からその方向性に関する三次元的な情報を得ているというわけです。不思議ですよね。それがCDを聴いていて感じないのは、根本的に生音と録音された音に「違い」があるからです。

バイノーラル


KU100 人間が生音を聞く条件と同じ条件で録音すれば、あの立体感が録音できるのでは? という発想はずいぶん前からありました。その代表格が「バイノーラル」というものです。人間の耳は頭の側面に付いていて、音の入り口にはいわゆる「耳」とよばれる飛び出したものがついています。人間はこの頭蓋骨や耳を回り込んできた音を聞いているわけです。ではということで、人間の頭部の模型(ダミーヘッド)を用意し、人間の耳と同じ位置にマイクを埋め込んだもので録音できるような装置が開発されました(写真はノイマンのKU100)。これで録音されたものはいわゆる「立体音響」になっています。実際の耳で聞いた感じに近い臨場感があります。しかし前後感や特に上下感の再現には乏しいものがあり、完全には再現されていない方式ではあります。

ホロフォニクス


 アルゼンチンの脳生理学者ヒューゴ・ズッカレリ氏が1970年代に開発した「ホロフォニクス」というシステムは当時大きな話題を呼びました。彼の開発したシステムで録音された音はかなりはっきりとした前後感や上下感が再現できていて、バイノーラルにはない、異常にリアルな「空気感」をも再現しました。立体音響ブームに火を付けたのが彼の存在です。
 彼はシステムの根幹をなす原理を知られたくないために特許も出願していないようで、いまだもって謎なのですが、その徹底した秘密主義からよりホロフォニクスの神秘性が強調されるようになってしまいました。
 少ない情報によると、彼が注目したのは「耳音響放射」と呼ばれる現象です。それまで人間の耳は外部の音を聞くための機能しか持っていないと考えられていましたが、近年の研究によると耳の細胞自体が振動することによって「耳自体が音を出している」ということが分かっています。僕は専門家ではないのでこの説明は正しくないかも知れませんが、この耳音響放射が外部から入ってきた音と混ざり合うことで何らかの干渉が起き、そこから三次元的な情報を得ているというのです。それを電気的に再現したものがホロフォニクスというわけです。
 ホロフォニクスで録音されたカセットテープやCDは80年代に書店でブックレットを付けて販売されていましたが、通常のCDなんかよりも高い値段で販売されており、買った人はさほど多くはなかったと思います。今でもネットオークションでは高値で取引されていますが、内容は効果音集のようなもので、もう一つはピアノ曲を集めたものがあります(これはいまひとつ効果がわからず)。
 ホロフォニクスを使った音楽CDも少ないですがあります。一般的に知られているものではマイケル・ジャクソンのアルバムBADに使われている効果音とか、ピンク・フロイドのFinal Cutに一部使用されているのが有名ですが、極めつけはイギリスのSome Bizzareというインディーズ・レーベルから80年代に作品を数多くリリースしていたサイキックTVというバンドの1stと2ndアルバムです。この2枚のアルバムは全面的にホロフォニクスで録音されており、特に2ndアルバムには「このアルバムはマイクロフォンを一切使っていません」と但し書きが書かれているほど手の込んだ立体音響を聴かせてくれます。

Psychic TV


 僕はホロフォニクスの存在を知る前からサイキックTV、というかSome Bizzareのファンでした。当時そのオフィスはロンドンのSOHOにあり、スタッフも5人程度の弱小レーベルではありましたがTHE THEやSOFT CELLなどの100万枚単位でアルバムを売った売れっ子アーティストをかかえていたためにかなり羽振りのいいレーベルでした。その金をそんなに売れるとは思えないサイキックTV(前身はスロッビング・グリッスルというインダストリアル・ノイズの大御所)につぎ込んだことでホロフォニクスのような特殊な環境でアルバムを作ることができたようです。
 1st “Force The Hand Of Chance”は非常に泣き泣きのアコースティック・ギターにボーカルのジェネシスPオリッジ(男だが現在は豊胸手術して両性具有者に…)がヘナヘナの声で歌い、そこで美しいストリングスが入ってくるわけですが、はっきりとした三次元の感覚があるとはいえず、ただ「良く録れた録音」といったイメージしかありません。その後怒濤のギターノイズへ突入し、非常に宗教じみた音楽世界になっていくのですが、ところどころに非常に立体的に聞こえる曲もありますが、ホロフォニクスの醍醐味を味わうにはちょっと物足りないです(アルバムとしては僕は最高だと思いますが、殆どの人はついて行けないと思います)。
 ptv.jpg1stの立体感の欠如の問題がオーバーダビングにあったことを反省し、再度トライしたのが2ndの”Dreams less Sweet”です。これは曲間にも非常に立体感の強調されたホロフォニクスな効果音が満載で、曲全体にもその良さが現れています。全面ホロフォニクスで録音されただけあって、特にヘッドホンで聴くとおお〜っと感動します。ただキャッチーでわかりやすい音楽が好きな人には相当キツい音楽でしょう。ジャケットの花の写真の花心に合成されているのがジェネシスのポコチンに入っているリングピアスであることを考えれば、内容もお察しできるかと思います。美しくも宗教的で病的、ノイジーで神秘主義みたいなグループです(ちなみにリーダー兼ボーカルのジェネシスPオリッジは「イギリスで最も病んだミュージシャン」として国会でも取り上げられたことがあるとか。まー豊胸とかしてますしね)。
 また長らく廃盤になっていた2ndのCDが今月に入って突然デジパックで再発されました。欲しい人はなくならないうちに買っておかないと、またヤフオクで法外に高い値段で買わなきゃいけなくなりますよ。あ、ちなみに1stは日本盤のみ初回のボーナス盤もCD化されましたが、これは今もって廃盤です。中古で出ても非常に高いです。

Psychic TVやホロフォニクスについて詳しく知りたい方は非常に良くできたサイトが日本に存在します。23net.tvのここをご覧ください。

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