大山誠一 続き

 聖徳太子がいなかったなんてそんなばかなと思うかもしれないけど、むしろそういう意見を公然と言えない雰囲気が明治以降あった。というのも、聖徳太子は皇室の歴史に関わる存在だからだ。でもここんところ学者の皆さんもこの説を支持する人が増えた。むしろ正面からこの問題を否定しようとする人は少数になってしまっているようだ。

 
「日出ずるところの天子…」の文章で有名な隋書の記述では、聖徳太子が摂政をやっていたと日本書紀が言っている時期に隋の皇帝が派遣した使いの者から聞き取った記述が結構詳しく書かれている。その使いは直接何度か「大王」と会っており、大王は男だったと言っている。しかしその時代は推古天皇という女性天皇がいて、記述に矛盾がある。この問題について歴史の世界は積極的に突っ込んでこなかったのだ。しかも大王の名前も記述されている。「アメノタリシヒコ」。この名前は日本書紀には出てこない。固有名詞ではないという説もある。なんで隋書と日本書紀は矛盾しているのか。日本書紀のほうが怪しいというのが大山説だ。十七条憲法も「和を以て尊しとなす」はよかったが、憲法に書かれていること自体が「律令」っぽいことが指摘されている。律令は中国でさえ聖徳太子の死後に成立している。
 なんか文章が難しくなってきたぞ。このへんでやめとこう。
 
 まったく話が変わるんだけど、ウィキペディアの松岡修造のエピソード欄がとても面白い。
あの人、東宝グループの御曹司なんだね。それはいいとして
トレーニングの1つとして、レストランでの注文をメニューを見て5秒以内で決めるという事をやっている。」
というのが意味不明でいい。テレビかなんかで言っていたらしいが、松岡修造は家で焼きたての肉が食べたいと言って、奥さんに食べる一口ぶんの肉だけをキッチンで焼かせて、それを何往復もリビングへ持ってこさせるらしい。さすが以前冬期オリンピックの現場で騒ぎすぎて退場させられただけのことはあるな。
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